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毎月の父母会で配布している園長のメッセージです
2019年5月 ②バングラデシュと共に
5年前
◆愛の中で育つ -②バングラデシュと共に-
5月も半ばを迎え、春から夏へ向かって自然の息吹も力強さをましている中、幼稚園でも日々の生活を通して子ども達の輝きがさらに増してまいりました。さて、幼稚園ではこの時期に子どもたちと「バングラデシュ」を覚える時をもっています。今年は残念ながら叶いませんでしたが、例年バングラデシュからアルバート・マラカール氏(現地NGO法人、BDP総主事)を幼稚園にお招きして、園児や父母とゆたかな交流の時をもっています。氏との出会いを通して、子どもたちは世界が広げられ、遠いバングラデシュの友だちに出会います。言葉も、文化も、肌の色も違う国で暮らす友達と、「心をつなげる」ことができるのです。さらに、氏との出会いは私たち大人の世界も広げてくれます。日本とは比較にならないほどの貧困と困難を抱えている国に暮らす人々や子どもたちの実状に触れて、私たちがどう生きるかを考える機会を与えてくれます。
ご存知のように、バングラデシュは世界の中でも「最貧国」に位置づけられ、経済的に大きな困難を抱えている国の一つです。日本人の平均年収は400万円くらいだそうですが、バングラデシュ人の平均年収は3万円とも4万円とも言われています。単純に計算すると、一日に100円程度しか使えないことになります。一日当たり使えるお金が1ドル以下の人たちを「絶対的貧困層」というそうですが、バングラデシュでは国民のほとんどがその層に入ってしまう計算です。しかし、稼ぎがある(仕事がある)人はまだいい方で、日々の糧もろくに与えられない人たちも大勢いるのです。
貧困は、「貧困である →子どもを学校に通わすだけの余裕がない →教育が受けられない(=読み書き、計算ができない)→成人してからもろくな仕事に就けない →貧困から脱却できない」というように、負の連鎖を生み出してしまいます。BDPは30年近くに亘ってACEF(アジアキリスト教教育基金)の支援の下に「教育こそがバングラデシュの発展に不可欠である」と、学校に通えない子ども達のために無償で学校を開き、教育の機会を与えています。現在ではBDPの学校に通う子どもは7,000人を数え、大きな教育の運動に発展しています。当園のエイセフボランティア会の働きも、BDPのこの運動を支援するためのお母様方によるお働きであります。
私も以前訪バし、BDPの学校に見学に行く機会がありましたが、どの子どもも学校に行ける喜びでいっぱいに目を輝かせながら勉強している姿に感心させられたのを覚えています。「僕は将来お医者さんになりたいんだ」とか、「私は学校の先生になりたいの」など、とびきりの笑顔で夢を語る子どもたちの姿に「本当にそうなれたらいいね」と心から応援したい気持ちになりました。しかし学校に通えても、卒業まで通学できる子どもはほんの一握り程度です。それは、家庭の経済状態のために子どもも働かなければならないからです。学習を積み上げる重要性、それによって広がる将来の可能性などを親が知らない(親自身が教育を受けたことがない)ため、あるいは日々の暮らしがそれ以上にひっ迫しているため、子どもを学校に通わせきれないというのが実情なのです。
私たちは日本という恵まれた国で生活し、子どもが教育を受けることは今や当たり前となっていますが、そうではない現実を知ることで、「自分たちがどれだけ恵まれた環境を与えられているか」ということに気づくことができます。教育を受けることは「人生を選択するチャンスを広げる」ことです。そのチャンスが与えられている私たちの子どもには、ぜひ大きな夢や志を持って「期待に満ちた人生」を歩んでいってもらいたいと心から願います。そして、そのチャンスが与えられていない子ども達がいることも忘れずに、またそのチャンスが少しでも広がるように願い、これからもできる範囲で応援していきたいと思います。
◆今月の聖句 「あなたがたは神さまに愛されている子どもです」(エフェソ5:1)
みなさんはお家ではお父さんやお母さん、家族から愛され、幼稚園では先生やお友だちから愛されて毎日を過ごしています。愛するとは「大切にする」ことです。みなさんは周りの人たちから大切にされています。大切にされると嬉しいし、安心しますね。神さまは私たちみんなのお父さまです。目には見えないけれど、いつも私たちを愛し、守って下さるお方です。皆さんの歌う賛美歌や、お祈りを聞いて下さいますし、一人ひとりの心に寄りそって下さいます。神さまは私たちを大切にして下さいます。そして、神さまはこの世のすべてのものをお創りになられた方です。動物や虫たち、草花や木々などにも神さまが与えて下さった「いのち」が宿っていて、私たちと同じように大切にされています。
神さまに愛されていることを知って、私たちも安心して毎日を過ごしましょう。そして愛して下さり、守って下さる神さまにありがとうの気持ちを忘れずにいましょう。さらに、神さまが与えて下さった自然を大切にして、いのちを大切にして、お友達同士大切にしあって大きくなってまいりましょう。(子どもの礼拝要旨)
園長 石川 勇
2019年4月 ①出会いの一学期
5年前
◆愛の中で育つ -①出会いの一学期-
お子さんのご入園、ご進級おめでとうございます。いよいよ2019年度の保育が始まりました。この一年もどうぞよろしくお願いいたします。
さて、4月は新しく入園した子どもたちはもちろん、進級した子どもたちにとっても新しい一年への「スタートの時」です。新しい生活や経験は私たちの気持ちを新たにし、意欲をかき立ててくれる時でもありますが、同時に戸惑いや不安を感じさせる時でもあります。入園や進級を迎え、子どもたちの心中にもきっと「期待と不安」が入り混じったような複雑な感覚があるに違いありません。特にゼロからのスタートを迎えた新入園の子ども達にとっては、見るもの聞くものすべてが初めての経験であり、戸惑うのも不安になるのも当然、自然なことであると思います。
幼稚園ではこの学期を「出会いの一学期」と位置付け、新しい人や場、生活との出会い(出合い)が丁寧であるよう、また豊かであるよう心がけていきたいと考えています。特にこのスタートの時には、戸惑いや不安の中にある子どもたちが安心して生活できるように一日一日丁寧に関わりながら生活を積み重ね、教師との信頼関係を深められるように特に配慮し、励ましながら過ごすように努めてまいります。安心して幼稚園生活を過ごせるようになる過程には個人差がありますから、ご家庭においても担任の先生とよくコミュニケーションをとって、お子さんのペースで一つひとつを乗り越えていけるようにあせらず、急がず、気持ちに余裕をもって見守っていくように努めていただきたいと思います。また、新しい環境に順応していく時は想像以上に心や神経を使い疲労します。お子さんがお家でボーっとしたり、だらだらしたり、機嫌が悪くなったりすることもあるかもしれませんが、幼稚園での頑張りをよく理解してあげ、ご家庭では努めてリラックスできるように環境を整えたり、関わりを考えたりすることもこの時期のお子さんに必要な配慮となるでしょう。
この時期は子どもたちにとってだけではなく父母の皆さんにとっても出会いの時、スタートの時です。お子さんと同じように戸惑い、不安を感じている方も決して少なくないと思います。毎日の送り迎えの中で、また父母会などの機会で、あいさつや言葉を交わしあいながら子どもたち同様「無理せず等身大でゆっくりと」幼稚園や周りの方々と出会ってまいりましょう。経験の長い方も、どうぞ新しい年度にあたって新しい気持ちで出会い直し、更に交流を深めたり広げたりできる一年を過ごしていってください。皆さんにとってこの一年も有意義で幸せな年となりますことをお祈りしております。
◆今月の聖句 「新しいぶどう酒は新しい革袋に」(ルカ5:37-38)
子どもたちの礼拝では、毎月聖書から与えられた「み言葉」を皆で覚え、考えあう時を持っています。
今月は「新しいぶどう酒は新しい革袋に」というみ言葉が与えられています。
(聖句)「また、だれも新しいぶどう酒を古い皮袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、新しいぶどう酒は皮袋を破って流れ出し、皮袋もだめになる。新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れねばならない。」(ルカ5:37-38)
イエスさまの過ごされていた2000年前の時代は、ぶどう酒を羊や山羊の革袋に入れて発酵させていたそうです。皮は古くなると硬くなり柔軟性がなくなるので、新しいぶどう酒を入れると、発酵により生じるガスで革袋が破れてしまうことから、新しいぶどう酒を作る時は必ず柔軟性に富んだ新しい革袋に入れることが常識でした。このイエスさまのたとえ話は、アメリカのオバマ前大統領もスピーチの中で引用し、「新しい時代は古い固定概念の中では築けない。新しい時代は新しい価値観の中で作るのだ」と語りました。
私たちは情報化社会の中で、日々溢れるほどの情報に浸かって生きています。しかし、その情報を何でもかんでも同じ袋に入れていたら、他のガラクタとゴチャゴチャに混ざり合い、何が大切であるか分からなくなってしまいます。人生を豊かにしていくために、あるいは幸せに生きるために大切な言葉や考えは、やはり新しい袋に分けて他のものとは区別していくことが必要でしょう。
是非心の中に新しい革袋を用意し、大切なことを一つひとつしまってまいりましょう。
園長 石川 勇
2019年3月 ⑪コミュニティー
5年前
◆輝く子どもと共に -⑪コミュニティー-
いよいよ一年の保育の歩みが終わろうとしています。この一年間、皆様の温かい励ましとお支えの中で「ゆたかな保育」を展開する事ができました。こどもたちのために、父母会をはじめ、様々なボランティア活動にも積極的に関わってくださり、心から感謝申し上げます。
さて、今年度の最後となる3月は「コミュニティー」について考えてみましょう。
以前、ケニヤから野生動物の保護活動をしている方をお招きして講演会がもたれ、ケニヤのゾウについてお話を伺う機会がありました。ゾウは社会性が高い動物で、その生涯を自分の所属する群れで過ごすこと、群れには年長者(70歳くらい)から生まれたてのあかちゃんまでおり、その群れは20頭近い規模であること、子ゾウは群れ全体で育て、生きていく知恵やルールなどが時間をかけて教え伝えられていくこと、など大変興味深いお話を聞くことができました。その話の中で、ゾウが近年人間を襲ったり、農作物を荒らしたりする事件が多発しており、深刻な社会問題になっているということを聞きました。元来人間とうまく共生していたゾウが、なぜそのような行動をとる様になったのか?観察や研究が進み、ひとつの事実が分かったそうです。それは、象牙のために密猟者によって「特に象牙の大きい年長者から」殺されてしまう、このことは、ゾウの群れにとっては「生きる知恵やルール」を伝えていくべき存在が突然いなくなるということで、その年長者を欠いた群れで育った(教育を受けていない)ゾウが被害をもたらすような行動をしてしまうのだそうです。長い歴史をかけて人間との間に築かれてきた暗黙のルールが今まさに壊れようとしている・・・。人類の歴史にとっても本当に大きな損失であると思うのと同時に、この日本で生きる「私達の生き方」にも共通するメッセージなのではないかと思いました。
現代の日本社会はどうでしょうか。「昔のような地域社会」はだんだんと姿を消し、「知らない人には話しかけない」ことが常識のように子ども達に伝えられ、地域から「笑顔とあいさつ」が消えました。近所の個人商店は、すっかりと大型スーパーに押し潰されてしまい、近所の知り合いのおばちゃんやおじちゃんもいなくなりました。つまり、こどもが社会と出会う機会がすっかりと奪われてしまったのです。生活環境が「家庭」と「学校」だけだとしたら、そしてもし仮に家庭教育が十分でなく、かつ学校が教育カリキュラムに追われているような状況であったとしたら、こどもたちはどこで「社会のルール」や「生きる知恵」を学ぶのでしょうか。最近の若者の特徴として、無気力、無関心、自己中心的、我慢を知らない、普通の子がキレる・・・などが挙げられます。しかし、幼い時から「社会のルール」や「生きる知恵」を教えられていないのだとすれば、自己中心的に行動することも、周りには無関心で、無理強いされればキレるのも何となくうなずけるのです。そして、その姿は上記の「問題を起こすゾウ」の姿によく似ているように思います。
コミュニティーとは、まさにゾウでいう「群れ」にあたります。群れの中で育つ事によって、ゾウが自然と生きる知恵やルールを身に付けていくように、人間も群れの中で育つ事によって、たくさんの知恵やルールを学び、時には自分よりも小さな存在を守る、教えるなどの経験も積んでいくのだと思います。そのような環境の中で、例えば、「自分勝手ではないが、自分らしい生き方」や、「自分を守りながらも他者と生きていく術」、「分相応の幸福感」など・・・、自分にも周りにもコントロールの効いた「等身大の生き方」を見つけていくことができるようになるのではないでしょうか。
「今、私はどんな群れの中で生きているのか?」この機会にご自身に問いかけてみるのも良いかもしれません。そして、自分自身が「今もなお生きる知恵を学び、伝えているか」あるいは、「どんな群れであれば生きる知恵を伝えていけるのか」、「生きる知恵とはどんなことだろうか?」といったことを是非考え、皆さんの話題にしてみてください。なぜならば、こうした取り組みや行動こそがコミュニティー作りの始まりだと思うからです。願うような環境はどこにでもあるわけではありません。しかし、願う気持ちと仲間が集まれば誰にでもその環境を作ることができるのです。まずは一人より二人(IからWe)へ願いを広げてみてはいかがでしょうか。
◆今月の聖句 「愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子です。」(ヨハネⅠ 3:2)
幼稚園では週にいっぺん、こうしてみんなで礼拝堂に集まり礼拝を守ってきました。礼拝では、讃美歌を賛美し、皆で心をあわせてお祈りし、献金をお捧げして、聖書のみ言葉を覚えて、そのお話を聞いてきました。それぞれのクラスでも毎日お祈りや賛美をお捧げしてきましたね。
みなさんの頭の中には讃美歌や、聖書の言葉、きれいなメロディー、お祈りやお話の内容などがきっといっぱい入っていることでしょう。そして、一人ひとりの心の中には「神さま」がいらっしゃることに気がつくと思います。皆さんはこの一年、礼拝に参加し、その経験を積み上げながら「神さま」を知り、神さまの「愛」に触れてきたのです。ですから、この聖書の言葉の通り、今、もうすでに皆さんは神の子どもなのです。
神さまを信じて生きていくことを「信仰をもって生きる」と言います。心の中にいて下さる神さまといつも対話をして、うれしい時も、悲しい時も、心配な時も、怒りに震える時も、いつもいつも神様を信じて生きてまいりましょう。私たちの神さまは、愛の方です。自分の命や心を大切にして、お友達と仲良くして、互いに助け合い、理解し合って平和を創り出してまいりましょう。これこそが「神の子」として神さまに喜んでもらえる生き方だと思います。
(子どもの礼拝要旨)
園長 石川 勇
2019年2月 ⑩全人教育
5年前
◆輝く子どもと共に -⑩全人教育-
今月のテーマは「全人教育」です。この言葉は人間を部分の集合として捉えるのではなく、全人格的に(Whole Parsonとして)捉えようとする人間観であり、教育観です。人間とは専門性や、知識、能力などによるだけでなく、その人間性や、感性、道徳性などと調和がはかれていることが大切であり、よって教育とは「学力などの部分に偏重することなく」総合的な観点から行うことが重要だとする考え方です。
ところで、評価には絶対評価と相対評価という二つの大きな視点があります。例えば、同じ「片づけができた」ということについての評価でも、「今日のA君は(昨日はできなかった)遊びを途中で切り上げ、お片付けを最後までしっかりとすることができました。」という評価(絶対評価)と、「A君はクラスのお友達の中で一番はじめにお片付けをすることができました。」という評価(相対評価)となり、前者はA君自身がどうであったか、後者はA君が他と比べてどうであったかという視点で評価を受けることになります。
多くの人は社会に出ると、競争社会の中で「他社よりも安く効率的」にとか、「ノルマ達成」とか、言ってみれば「相対評価」の中で生きていくことを強いられることになります。どの会社も生き残りをかけた競争を展開しているのですから、その戦力として力を尽くし結果を出すことが求められるのはよくわかります。しかし、この結果重視、効率性重視の価値観は、あくまでも「会社の利益追求のために考えられた」企業論理という偏った価値観であることを知らなくてはなりません。幼い頃から他と比べ、競争させるような教育方法には甚だ疑問を感じます。また、私たちはよく他人と比較して様々なことを考えます。あの子と比べて自分はこうだ、みんなが持っているから自分も欲しい、あいつ変わり者だから仲間はずれにしようetc・・・。これは他人との比較の中で自分を安定化させようとする価値観です。極端な場合には、周りの目にばかり気を使い、意思決定も自分ではできなくなってしまいます。これも相対的な物の考え方であり、偏った価値観であると言えるでしょう。現に年間に3万人もの人が自らの命を断つ時代、多くの人が鬱に悩む時代・・・、競争、比較の中だけでは人は生きられないことを、この異常な時代が表しているのではないでしょうか。
将来このシビアな競争社会に出て行くこども達に、私たちは何を伝えていけばいいでしょうか。自分に厳しくムチ打つ精神力でしょうか、それとも競争に負けない強さでしょうか、親として様々なことをお考えになることと思います。しかし、一つ言えることは、将来のことを案ずるばかりに「今」を見失っては元も子もなくなるという事です。今この時を充実させることができなくて、どうして将来が充実できるでしょうか。多くの人が競争や比較に疲弊し、「何のために生まれてきたのだろう?」、「自分の存在価値って何だろう?」と自問し、「競争や比較に適応できなかった」と自責の念に駆られています。そのような中だからこそ、「生き生きと生きる」ことが重要となります。生き生きと生きるということは、日々が充実しているということです。等しく与えられた時間を「他者と比べて過ごす」のか、「自分で主体的に過ごす」のかでは大きく違いが出るでしょう。いつも足りないことばかり見て、不安を感じている人は、誰にも気を許すことができず、心は頑なになり、焦りや恐怖に支配されてしまうでしょう。しかし、主体的に過ごせる人は、ありのままの自分を受け入れ、自分を愛せる人であり、穏やかでオープンな心が保てます。そして、この心の余裕が充実へとつながり、生き生きと生きる原動力になるのです。
人の成長に生育環境は大きく影響を与える事は言うまでもありませんが、自分を愛せる(自尊心を養い、高める)ためには、家庭を「安らぎの場」にすることの他方法はないように思います。条件付け(~ができたから可愛がる)をしたり、他者(兄弟も含めて)と比較したり、指示ばかりしているような家庭(結果や見返りを求める愛情)では、休まるどころか「自分は認められていない(愛されていない)」というメッセージしか伝わりません。一方、お子さんと「今この時」を心から喜んで過ごせる家庭(絶対的な愛情)であれば、居心地が良く、安らげる、生涯いつでも帰ってきたくなるような場所となるでしょう。自分をそのまま愛してくれるのですから、自分を飾る必要もありませんし、安心、安定して生活できます。食事の時などには家族がそれぞれにその日体験した喜びや発見を聞き合い、笑い合える、ユーモアたっぷりの時間を過ごしていれば、自然と会話がはずみ、おのずと親の言うことだって聞ける子どもへとなっていくでしょう。そして何よりも「自分は愛されているんだ」と実感できるのです。「自分を愛する心」とは「家族から愛されていることを実感できてこそ」初めて芽生えるのであり、そこを拠り所としてやがては自尊心へとつながっていくのだと思います。
幼稚園でも友達と競い合ったり、比較したり、無理矢理押し付けることはしません。「安らげる家庭」のように、一人ひとりが世界に唯一のオンリーワンとして輝き、それぞれの輝きがどんどん増していくように、そして自分のことが大好きで自信に満ち溢れ、夢や希望をたくさん持てる人に成長して言って欲しいと心から願い、全人格的に子どもを捉えて保育にあたっています。ぜひ、お子さんだけでなくご両親も含めて、「今」を肯定して、充実させ、幸せな人生をお過ごしください。
◆今月の聖句 「その賜物を生かして互いに仕えなさい」(ペテロⅠ 4:10)
神さまは私たち一人ひとりに「賜物」を与えて下さっています。世の中には、頭のいい人、力の強い人、歌声の美しい人、足の速い人、音楽を奏でることができる人、話の上手な人、やさしい人、ユニークな人・・・。いろんな良いところを持った人がいます。みんな一様ではなく、それぞれに違う良いところがあるのです。このように、その人ならではのキラキラ光る良いところを「賜物」といいます。
聖書の言葉には「その賜物を生かして互いに仕えなさい」と書いてあります。互いに仕えるということは、その賜物をお互いのために用いていくということです。自分に与えられている賜物を自分のために使っても、それは神さまのお心ではありません。そうではなくて、自分の賜物を他の誰かのために用いるために神さは私たち一人ひとりに賜物を与えて下さっているのです。例えば、頭のいい人が自分のお金儲けのためにその頭脳を使ったとしても、あるいは力の強い人が威張るためにその力を使ったとしても、神さまはお喜びになりません。もちろん周りの人たちからも喜んでもらえないでしょう。
ノーベル賞という賞があります。これは世界中で「人の役に立った」行いや発見、発明をした人に贈られる大変立派な賞です。世界の平和のために、あるいは人々の暮らしが便利になるように、地球を守るために・・・。たくさんの行いや研究がありますが、この賞を受ける人は、誰もが「人々のために自分の賜物を生かした」人たちです。このように、人のために自分の賜物を用いた時に周りの人たちから感謝され、神さまにも喜んでもらえるのだと思います。
私たち一人ひとりにも神さまはちゃんと賜物を与えて下さっています。これからだんだん大きく成長し大人になっていく中で、自分に与えられている賜物は何かを見つけていきましょう。そして、その賜物を周りの人たちのために用いていける人になっていきましょう。
自分のいいところは、案外自分よりも周りの人の方が知っていたりもします。ずっと一緒にすごしてきた3学期、よくわかりあっている皆さんだからこそ見つけられる、お友達の「良いところ探し」をしていけたらいいですね。(子どもの礼拝要旨)
園長 石川 勇
2019年1月 ⑨子どもの成長
5年前
◆輝く子どもと共に -⑨子どもの成長-
新年明けましておめでとうございます。今年もどうぞよろしくお願いいたします。いよいよ3学期が始まりました。この3学期は、1学期からの「一人ひとりの成長」に目をとめて、喜び合う毎日としていきたいと思います。健康に気をつけ、豊かな日々としていきましょう。
さて、今月は「子どもの成長」についてご一緒に考えてみたいと思います。幼児期に特に必要な成長を挙げるとすれば、私は「基本的生活習慣の確立」と「基本的信頼関係の構築」ではないかと考えます。
「基本的生活習慣」とは、食事、睡眠、排泄、清潔、着衣の着脱の5つが一般的ですが、その他にも生活態度(あいさつ、約束や時間を守る)などが含まれます。これらすべてにおいて全介助が必要であった乳児期から、幼児期には(徐々に手を出さずに、見守りながら、段階を追って、やがては、)自分の力でできるようになる(自立と自律する)ことが必要で、親の関わり方がとても重要な時期と言うことができます。最近、集中力がない、きまりが守れない、物を大切にしない、じっとしていられない、朝食を食べない、などの課題がある子どもが増えていると耳にしますが、これらの多くは基本的生活習慣に関わる問題であり、主にその原因は生活にリズム(きまりや区切り)がない、過干渉(何でもしてあげる)など、大人の関わり方の問題とされています。基本的生活習慣の一つひとつは単独で考える必要のある課題でもありますし、食事が十分でなければ、睡眠や排泄にも影響を与えるように、相互に関係しあうものなので複合的に考える課題でもあります。幼児期には十分に時間をかけて一つひとつを「自分の力で達成できる」ように環境を整えていくこと、そしてリズムをしっかりと身につけられるように「規則正しく」生活していくことが重要です。
次に「基本的信頼関係の構築」ですが、ご家庭ではご両親とお子さんの信頼関係をどのように構築するか、幼稚園では教師や友達との信頼関係をどう構築していくかということになるでしょう。ご両親が、あるいは教師が子どもと関係を築く時に気をつけなくてはならない事は、まずは「信頼とは何か」をよく考える事だと思います。信頼は依存や、服従とは違います。何でもしてあげること、力ずくで押さえ込もうとする事は、いずれも信頼とは対極的な関わりであり、こどもの成長を妨げます。手助けや管理は適切でなければなりませんし、関わりの中心にすべきではありません。信頼には互いを信じ、尊敬しあう心が必要です。また、相手に何かを「させられる」のではなく、相手のために「自らする」ことが信頼に応えるという行動です。知識や体力をいくらつけたとしても、人を信頼するという感性が欠落したまま大人になってしまうと、自分以外は信用できない、自分さえよければ他人はどうでもいいといった自己中心的な価値観に偏り、ついには孤独や絶望に支配された寂しい人生を送ることになるでしょう。「人を信頼し、その信頼に応えていく」という感性は、人間関係において非常に重要であり、人生そのものを豊かにします。ですから、幼児期に家庭や幼稚園での生活体験を通して、他者を信じる、尊敬する心を育むことは非常に大切なのです。
「基本的生活習慣の確立」と「基本的信頼関係の構築」は別々の課題ではなく、関連づけて考えると良いと思います。つまり、生活習慣を身につけていく過程で親子の信頼関係を深めていけるような生活のあり方を考えるということです。それぞれの時間が「わかりやすいように、また楽しくなるように」工夫して「大人も一緒に」楽しみながらそこに参加し、「してもらう喜びから自らする喜びへ」転換していけるような生活が送れたならば、また子どもが自分でできた時に心からの賞賛を与え、共に喜んでいける生活が送れたならば本当に素晴らしいと思います。自分でできた達成感は自尊心を養い、賞賛されることで自信となります。もっとお母さん、お父さん、(先生)を喜ばせたいという気持ちが次の意欲となり、やがては自ら考え、行動できるようになっていくのです。
幼稚園の一年の歩みも終盤を迎えました。園生活ではこれまでに様々な生活課題を「楽しみながら達成できるよう」工夫し、援助し、教師も共に参加し歩んできましたが、この時間を通して得た成果はやはり「信頼関係」であると思います。教師を信頼しているからこそ、みんなの中で自分を出して(自己発揮して)いけるのですし、友達とも安心して遊び、ぶつかる(他者理解する)ことができ、このような生活体験を重ねていくことで「皆で力を合わせ、心を合わせる」ことのできるクラスへと成長していくのだと考えています。来月には成長を祝いあう会が持たれますが、生活体験の長さや年齢によっての違いこそあるものの、安心して自己発揮している姿、友達と仲良く遊び、ぶつかりながら互いを求め合う姿、クラスのみんなで力と心を合わせ、誇らしく参加している姿などをご覧になり、どうぞたくさんの賞賛を与えて下さい。その姿こそがお子さん自身の力であり、成長なのですから。
◆今月の聖句 「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい」(ルカ6:31)
幼稚園がおうちと違うところは、同じ年のお友達、それもたくさんのお友達と生活することだと思います。おうちでは、好きなおもちゃもいつだって、いつまででも、独り占めして遊ぶことができるけれど、幼稚園では、「そのおもちゃ」で遊びたい他のお友達もいますから、なかなか自分の思い通りにはならないこともありますね。幼稚園に入りたての頃は、そのことでずいぶん苦労したと思います。これはボクの(ワタシの)、と言って取りあったり、遊んでいるおもちゃをサッと取られて泣いてしまったり・・・、だれもが経験することです。でも、3学期になった今ではみんな上手にお友達とすごす(遊ぶ)ことができるようになりましたね。それは、「順番こ」とか、「先にいいよ」とか、「一緒に遊ぼう」とか、みなさんの中に『譲り合う心』が育ってきたからです。
この「譲り合う心」は皆さんが大きくなって大人になってもずっとずっと大事な心です。時々、大人になっても、順番を守れない人、欲しいものは独り占めにしようとする人を見ます。この人たちは「譲り合う心」を知らない人たちです。こういう人たちは、自分勝手で、みんなと楽しく生活することができません。でも、みなさんは幼稚園で、もうこの心を持つことができました。小さいうちに大切な心が持てて良かったですね。この心があれば、みんなと楽しく幸せに過ごすことができます。ぜひこれからもこの心を大切にしていきましょう。
さて、お友達との生活は譲り合うことだけではありません。お友達のことをよく知れば知るほど、お友達の気持ちがわかります。「あ、今日は元気がないな」とか、「なんか嬉しいことがあったのかな」とか、仲良くなるとお友達の心がわかるようになるのです。そんな時に、「人にしてもらいたい」と思うことを「人にしてあげる」ことのできる皆さんになってほしいと思います。「こんな言葉をかけられたらうれしいだろうな」とか、「こんな風にされたら喜ぶかな」とか、自分がされてうれしいことをお友達にもしてあげましょう。逆に、「こんな風に言われたら嫌だな」とか、「こんなことされたら嫌だな」と思うことは「しない」ようにしましょう。
これからもみんなと心をつないで、互いに心を配りながら、お友達を大事にして、楽しく過ごしてまいりましょう。(子どもの礼拝要旨)
園長 石川 勇
2018年12月 ⑧クリスマスの喜び
5年前
◆輝く子どもと共に -⑧クリスマスの喜び-
12月に入り、アドベント(待降節)を迎えています。幼稚園でもだんだんと近づいてくるクリスマスのお祝いに向けて、子ども達とうれしい気持ちを高めながら毎日を過ごしています。
アドベントとはイエス様の降誕を待ち望む期間のこと、クリスマスまでの4週間を指します。アドベントに入ると、教会ではクリスマスクランツのロウソクに毎週一本ずつ火が灯され、子ども達はアドベントカレンダーの窓を毎週一つずつめくります。クリスマスカードを互いに交わしあい、ツリーやリースを飾り、家庭で、地域で、世界中でクリスマスを心待ちにします。
ところで、アドベントは「到来」とか、「降臨」といった意味ですが、冒険を意味する「アドベンチャー」の語源となった言葉でもあるそうです。主の降臨を待ちわびる、「ドキドキ、ワクワク」の気持ちが、冒険の時のそれとつながって「アドベンチャー」という言葉になったのかもしれません。ワクワクするのはその先に大きな喜びがあるからです。冒険の喜びは「先に何があるのか!」、「どんなものに出会えるのか!」など、未知なるものを「見たい」、「知りたい」という願望であるように思いますが、では、クリスマスの喜びとは一体どんなものなのでしょうか。一つの例をご紹介します。
例年、クリスマスの喜びを届けにたんぽぽ組の子どもたちが近隣の老人施設を訪問していますが、子どもたちの歌声や愛くるしさに触れ、涙を流し喜ばれる方の姿や、笑顔いっぱいに拍手する方の姿などを多く目にします。様々な事情で家族と離れて施設で生活する人たちの多くは、「孤独感」を抱えながら生活しています。子どもたちの歌声や笑顔は、ちょうど暗い場所に一本のロウソクの火が灯るように、そうしたお年寄りの心に火を灯すのでしょう。このように、クリスマスの喜びとは、「心に火が灯るような温かい喜び」であり、その火(喜び)を周りの人と「分かちあう喜び」だと思います。「喜びを分けあったら喜びが倍になった。苦しみを分けあったら苦しさが半分になった。」という言葉がありますが、分かちあうことの意味を私たちに教えてくれる言葉だと思います。
イエス・キリストは「愛の人」と言われています。その生涯を通して世界中の人々に「本当の愛」を示された方だからです。そのイエス様のお誕生日であるクリスマスに、私たちも家庭や職場、仲間の中に「愛」と「感謝」を改めて感じ、伝えあう機会としたいと思います。普段は忙しいお父さんもこの日ばかりは早く帰ってきて、みんなでご馳走を囲みながら「ありがとう」を伝えあえたなら、きっと「心に火が灯り、喜びを分かちあう」、素晴らしいクリスマスになることでしょう。どうぞ、よいクリスマスをお過ごしください。そして、新しく迎える一年も各ご家庭の上に神様の祝福が豊かにありますことをお祈りしています。
「私たちは忙しすぎます。ほほえみを交わすひまさえありません。
ましてや、愛を与えたり、受けたりするひまはないという状態です。」
「この世でいちばん美しいことは、神様が私たちを愛してくださるように
私たちも互いに愛することです。 私たちがこの世にいるのもこの目的のためです。」(マザーテレサのことばより)
◆今月の聖句 「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。」(ヨハネ1:9)
つらい時、悲しい時、不安の中にいる時、わたしたちの心は暗い闇に包まれてしまいます。しかし、イエスさまはどんな時にも私たちと共にいて下さって、闇夜を照らす光となって、わたしたちに希望を与えてくださいます。聖書に書かれている言葉は2000年も前のものですが、イエスさまはその長い年月を超えて、これまでずっとたくさんの人たちを、そして今もなお、私たちを照らしてくださっているのだから本当に驚きですし、まさしく「まことの光」だと思います。その光の中で毎日を過ごせる私たちは本当に幸せだと思います。
世界には今この時も、困っている人、悲しみの中にいる人がたくさんいます。それらの人たちの上にもイエスさまの光が照らされるように、温かいクリスマスが訪れるように、みんなで祈りましょう。(子どもの礼拝要旨)
園長 石川 勇
2018年11月 ⑦恵み
6年前
◆輝く子どもと共に -⑦恵み-
11月に入り、秋も本番を迎えました。葉の色づきや、木々の実り、抜けるような青空など、身の周りでもたくさんの秋を感じられます。この季節、幼稚園では芋ほりや遠足などを通して、また日常の保育の中で、身体いっぱいに秋を感じ、満喫しています。
過日は気持ちのよい天気の中、全員参加で、喜びいっぱいにプレーデーを行うことができました。はりきる子ども達を中心に置き、ご家族や教師、仲間達が笑顔いっぱいに応援できた素晴らしい一日でした。また、先日には父母会のバザーが、大盛況のうちに行われました。今年もお母さま方が一丸となって、子ども達のために楽しい時を提供して下さいました。これらの機会がきっかけとなり、またこれらの機会をご一緒することで、今後一層父母同士、あるいは幼稚園との親睦、信頼が深められていくことを心より願っています。ご支援ご協力くださった皆さまにこの場を借りて心よりの感謝を申し上げます。
今月は恵みについて思うことを書きたいと思います。幼稚園では来週にも収穫感謝祭を予定していますが、収穫感謝祭の起源は、1620年9月6日にイギリスの清教徒と呼ばれる102名のクリスチャンたちが、メイフラワー号に乗って大西洋に船出したことにさかのぼります。彼らが、北アメリカのプリマスに上陸したのは11月の寒い空の下でした。そして、最初の木小屋が建ったのが、ちょうどクリスマスの日。異郷の地で迎える冬は厳しく、食べる物も着る物もほとんどなく、農耕のすべも知らず、飢えと寒さと病気で半数が死にました。やがて春が来た頃、親しくなった先住民族から種子をもらい農耕を教えられました。トウモロコシ、エンドウ、大麦、小麦などです。初めての収穫の秋、彼らは予想以上の豊かな収穫に、教会で、家庭で、収穫感謝の礼拝をささげました。苦しかった忍耐の生活を振り返りつつ「小さな種子の芽を育て、太陽を輝かし、雨を降らせ、成長させて豊かな実りをお与え下さった神に感謝します」と心からの祈りをささげました。そして、友だちになった先住民族を招いて、小麦とトウモロコシでパンとケーキをつくり、七面鳥をとってきて一緒に喜びのパーティーを開きました。それが、11月に感謝祭を開いた最初です。その後240年余り経って、リンカーン大統領が、国の祝日に11月の第4木曜日を感謝の日と決めました。アメリカでは、この日、果実や木の実を料理し、開拓の労苦と神の恵みを思い起こしつつ、感謝することの大切さを教えています。
食べ物はわたし達の命と直結する重要な問題であるにも拘らず、与えられている恵みに感謝するという気持ちが少なくなっているように思います。それどころか飽食の時代、食べ物を粗末にする傾向は依然強まっているとも言えます。子どもの偏食も社会的に問題視されています。
ここに3枚の絵を想像してみてください。はじめの絵には「貧しい家の食卓」が描かれています。継ぎはぎの服を着た家族がランプの光の中で一枚のお皿に乗ったパンを囲み、頭を垂れて皆で祈りを捧げています。次の絵は「中流家庭の食卓」が描かれています。小綺麗な服を着た家族が一人ずつに盛り付けられたお皿の前に座り、お母さんだけが祈っています。最後の絵は「裕福な家の食卓」です。ワインやご馳走がならび、立派な服を着た人たちが大勢集まっています。皆、勝手気ままな方向を向き、食い散らかし、誰も祈っていません。このようにわたし達人間は、豊かになればなるほど「自分よがり」になり、祈ることも忘れ、感謝も忘れてしまうという一面を持っています。
恵みとは喜びです。食べるものがある、家族で食卓を囲む、これを当たり前と考えるか、喜びとして考えるかで価値観が大きく分かれるでしょう。もう少し考えるなら、こうして皆で食べられるのも収穫の実りがあったからであり、健康を与えられているからであるということに気付きます。このことこそ自分達に与えられている大きな恵みであり、喜ぶべきことであります。Thank(感謝する)の語源はThink(考える)だそうです。つまり、与えられている大きな恵みに気付き、さらに「考える」ことが深い「感謝」につながるのです。今月の聖書の言葉も「主は必ず良いものをお与えになり、わたしたちの地は実りをもたらします(詩編85:13)」としています。
食事に限らず、与えられている恵みを感謝することは、豊かな時代、便利な生活だからこそ「見失いがちな大切な価値観」であると思います。どうぞご家庭の中でも大きな恵みに気付き、考え、シェアをして「喜びと感謝にあふれた生活」をお過ごしください。
園長 石川 勇
2018年10月 ⑥子どもが育つ環境
6年前
◆輝く子どもと共に -⑥子どもが育つ環境-
活動の二学期もひと月あまりが過ぎ、秋本番を迎えました。この気持ち良い季節の中、こころもからだもいっぱいに使って子どもたちは充実した毎日を過ごしています。間もなくプレーデーを迎えますが、ご家族の皆さんも体調を整えてこの季節をどうぞ元気にお過ごしください。
さて、昭島幼稚園は「心が育つ保育」をテーマに掲げ保育にあたっています。スポンジのように柔らかい子どもの心には、見るもの、聞くもの、経験するもの、なんでもがそのまま沁み込んでいきます。そして、沁み込んだものによって心が形作られ、生涯にわたりその人の「心のベース」となっていきます。幼児期が人生の土台である言われるのはこのためです。この軟らかいスポンジのような心に何を沁み込ませてあげるか?これは幼稚園のみならず周りの大人に課せられた重要なテーマであると思います。今回はそんなことについて感じることを書いてみたいと思います。
私は以前にカナダの雄大な自然の中でスキーを楽しむ機会を与えられました。素晴らしい自然や人との出会いもありましたが、特にこの旅で深く印象に残ったことは、「子どもに対する社会的モラルの高さ」でした。リフト乗り場や、レストランなど公共の場所には「No foul language」との看板をよく目にしました。直訳すると「汚い言葉禁止」という意味になるでしょうか。それはつまり、子どもたちがいることに留意して言葉使い(行ない)に気をつけましょうという大人に対するメッセージなのだということを聞き、日本との違いを感じると同時に、大いに感動させられたのでした。その看板が表すように、知らない人同士が互いに秩序よく、また気さくに声やあいさつを交わしあう姿や、子どもにやさしい笑顔や言葉をかける大人たちの姿をたくさん見ることができ、本当に気持ち良い思いになったことを思い出します。
子どもは大人の背中を見て大きくなっていきます。良い親子関係もさることながら、大人が築きあげるコミュニティーがどれだけ子どもたちの心に影響を与えるか計りしれません。幼稚園においても、大人同士が交わしあうあいさつや会話の様子、笑いあい、励ましあっている姿、そしてご自分のお子さん以外にもいろいろな子どもに気さくに話しかけている表情、言葉、態度などを子どもたちは注意深く見ていますし、その柔らかい心のスポンジにしっかり沁み込ませています。どうぞこれからも子どもたちがいることに留意した言葉遣いや態度を心がけ、子どもたちの手本となるような素晴らしい父母のコミュニティーを皆さんで作り上げていってくださるように願っています。
◆今月の聖句 「天に富を積みなさい」(マタイ6:20)
「私たちは何も持たずに世に生まれ、世を去る時は何も持っていくことができません。(テモテⅠ・6:7)」
天に富を積むことは、世にいる間をどう生きるかということです。私利私欲にはしり、たとえ財を成したとしても、それをもって天に帰ることはできません。世にいる間、神さまに喜ばれる生き方をすることで天に富を積むことができるのです。神さまに喜ばれる生き方とは、自分に対しても他人に対しても誠実であること、人と愛し合い助け合って生きること、神さまに素直な心で生きることであると思います。これからも幼稚園のモットーである「自分には強い心、友達にはやさしい心、神さまには素直な心」で過ごしてまいりましょう。(こどもの礼拝要旨)
園長 石川 勇
2018年9月 ⑤戸外の活用
6年前
◆輝く子どもと共に -⑤戸外の活用-
長い夏休みも終わり、いよいよ2学期が始まりました。2学期は「活動の2学期」と位置づけ、秋から冬に移りゆく季節を身体も心もいっぱいに感じながら過ごしてまいりたいと思います。この学期も皆さんと「子ども達の成長」を共に喜び歩んでいきたいと思いますのでどうぞよろしくお願いいたします。
秋は一年の中でも最も過ごしやすい季節です。実りの秋、読書の秋、運動の秋、食欲の秋・・・秋は自然にも、わたし達にも、様々な恵みや楽しみを与えてくれます。どうぞこの季節、ご家庭においても積極的に戸外に出て、お子さんと一緒に様々な秋を見つけてみましょう。
<山の秋の楽しみ>
初秋までは虫取り(バッタやコオロギなども大型に成長)、晩秋は紅葉、どんぐりなどの実を拾うなど。彩り鮮やかな森に出かければ歩くだけで気持ちよい
<里の秋の楽しみ>
柿やリンゴなどの果実、作物の収穫、焚き火で焼きいもなど
この他にも秋の楽しみはたくさんあります。身の回りでも、幼稚園までの通園路で例えば柿の木があるとすれば、その木を日々お子さんと定点観察してみましょう。秋の深まりにあわせて実が大きくなったり、色づいたりする様が見られます。また、秋は中秋の名月に表わされるように、空が高く澄んでいますので、星空観察にも良い季節です。お子さんと星空を眺めながら、星座や流れ星を見つけるのも楽しい時間です。
都会的な生活は便利で快適である反面、気をつけていないと季節感や生活の工夫力、応用力まで奪われてしまいます。特に季節感は頭で考える「知識」とは違い、体験により五感で習得する「感覚」であり、実際に外に出て、見て、聞いて、嗅いで、触って、味わうことによって身につくものでありますから、幼いうちから四季折々自然の中でたくさんの体験を積むことが大切であると思います。
どうぞこの秋、ご家族でいろいろな秋を見つけにお出かけください。皆さんで「こんな秋を見つけたよ」と報告しあえたら楽しいですね。
◆今月の聖句 「心の清い人々は幸いである、その人たちは神を見る。」 (マタイ5:8)
「天にいらっしゃいます神様・・・」、私たちがお祈りを捧げる神さまは、天にいらして「目に見える」お方ではありませんね。でも、今月の聖書の言葉には「心の清い人たちは神さまを見る」と書いてあります。
「清い心」とはどんな心でしょうか。今日はそのことを少し考えてみましょう。
昭島幼稚園で大切にしている心があります。「自分には強い心、友だちにはやさしい心、神様には素直な心」。
幼稚園ではいろいろな時間がありますね。自由に遊ぶ時間もあれば、こうしてお話を聞く時間もありますし、みんなで力をあわせて何か相談したり、作ったりする時間もあります。先生はどの時間も大切な時間だと思いますし、どの時間にも楽しさや、「良さ」があると思います。だから、皆さんにはどの時間も大切にしてもらいたいと思っています。
さて、お話を聞いたり、順番やお約束を守ったりするためには、「自分で」そうしようと「決めて」、「まもる」ことが大切ですね。途中でおしゃべりしたくなったり、友だちよりも先にやりたくなったりしても、我慢する「強い心」が必要です。
また、誰でも一人ぼっちで過ごすよりも友達と過ごす方が楽しいし、うれしいですね。友だちにやさしい心を持つことは大事です。友だちにやさしい心でいると、友だちからもやさしくしてもらえます。そうすると「一緒に遊ぶ」ことができるようになるし、もっと友達のことが好きになって、やさしい心も大きくなっていきます。
友だちにやさしい心を伝えるにはどんなことが大事でしょうか。ぜひクラスでも話し合ってみてください。
そして、私たちをいつも見守ってくださる神さま、養い育ててくださる神さまに、いつも心をつなげていられるようにしましょう。神さまに心を伝える時間がお祈りの時間です。神さまに向かって素直な心で、うれしい気持ちや悲しい気持ち、心配や不安、お願い、感謝など、どんなことでも、「心の全部」を打ち明けてお祈りしてみましょう。神さまはそのお祈りを全部聞き入れてくださり、必ず応えてくださいます。
清い心とは、こうした強さや優しさ、そして素直な心でもありますから、これらの心を育てながらこれからも大きくなっていきましょう。(子どもの礼拝要旨)
園長 石川 勇
2018年7月 ④一学期の終わりに
6年前
◆輝く子どもと共に -④一学期の終わりに-
まもなく一学期の終業を迎えようとしています。一学期は「出会いの一学期」と位置づけて、一人ひとりの子どもにとって新しいクラスや環境、そして友だちや先生との出会いが「よいもの」となるように願って保育の日々を歩んでまいりました。特に新しく入園したお子さんにとっては、それまでの生活との変化も大きく、初めて経験することばかりの毎日で戸惑ったことも多かったことでしょうが、わずか3ヶ月で、どの子どもも幼稚園の生活に適応し、さらにそれを楽しめるようになってきたことは大きな成長であり、また喜びであると思います。顔つきもぐっと幼稚園児らしくなり、身体の線も一回り太くなったような、そんな印象さえ感じることができます。
この「適応」というチャレンジを支えてくれた大きな存在は、まず担任の先生であると言えるでしょう。入園や進級を迎えて不安の中にある子どもたち一人ひとりと出会い、大きな愛で包みこんで、時には励まし、時には抱きしめながら一緒に日々を過ごしてくれました。こうして一緒に積み上げてきた時間が、先生への「信頼」という絆となって子どもたちの心を支えてきたのだと思います。先生にほめてもらうのが嬉しくて「張り切る姿」、先生に励まされて「涙をふく姿」をあちらこちらで見ることができました。もう一つの存在は「友だち」です。友だちの姿を見て何でも真似をしてみたり、友だちと一緒に笑いあったり、競い合ったり、けんかもしたりしたけれど、いつも近くには友だちがいてくれました。友だちは大きな支えになってくれただけでなく、友だちから大切なことをたくさん学べたことと思います。こうした先生や友だちとの「かけがえのない」日々を過ごせた一学期、互いに「ありがとう」を伝えあえる時としたいと思います。
最後に、一学期の間も子どもたちの生活や成長を一番近くで見守り、励ましてくださったご家庭の皆さまの幼稚園に対するご理解や、ご協力を覚え、この場を借りて深く感謝を申し上げたいと思います。本当にありがとうございました。二学期までの間、しばらく長いお休みに入りますが、どうぞ幼稚園のこと、友だちのことを思う日々でもありますように。また、各所へお出かけする機会も多いと思いますが、安全や健康に気をつけて、どうぞご家族で有意義な時をお過ごしくださいますようにお祈りしています。
二学期の始業式で元気いっぱいの子どもたち、ご家族の皆さまに再会できることを楽しみにしています。
◆今月の聖句 「ほかの種は良い土地に落ち、生え出て、百倍の実を結んだ。(ルカ8:8)
聖書に書かれてあるお話しをします。種をまく人が種まきに出かけました。蒔いている間に、ある種は道ばたに落ちました。道ばただったので、種は人々に踏みつけられ、しまいには飛んできた鳥に食べられてしまいました。またある種は石だらけの場所に落ちました。芽は出ましたが、水気がないのですぐに枯れてしましました。ほかの種は茨の中に落ちました。やはり芽は出ましたが、他の茨におおいかぶさられて育つことができませんでした。しかし、他の種は良い土地に落ちました。良い土地だったので、芽を出し、ぐんぐん大きくなって、なんと100倍もの実をつけたのです。
聖書に書いてある「神さまの言葉」は私たちの心にまかれる種のようなものです。蒔かれた私たちの心がどういう心なのかによって、実を結ばずに枯れてしまったり、逆に100倍もの実を結んだりするのです。種が大きく育った土地はどんな土地だったか思い出してみましょう。種が育ったのは「良い土地」でしたね。今ちょうどたんぽぽさんは野菜を、どんぐりさんはひまわりを、そしていちごさんはサルビアを栽培しています。どれも「良い土地」で、お世話もちゃんとできているので、みんなすくすく大きくなっていますね。
では、神様の言葉が大きくなる心とはどんな心でしょうか。それは、「良い心」です。良い心かどうかは「聞き方」によって変わります。しっかりと自分の心を整えて、耳から入ったお話を「心」で受けられるようにいたしましょう。友達とおしゃべりをしていたり、騒がしい心のままお話を聞いていたりしても、「心」で聞くことはできません。そのような心は、道端や石地、茨に落ちた種と一緒です。すぐになくなってしまったり、枯れてしまったり、他のものとゴチャゴチャになってしまったりするのです。 心で聞く時には、まず「聞こう、聞きたい」という気持ちがないといけません。そして耳だけではなく目もしっかり向けてお話を聞くのです。そうすると、お話しがすっと心に落ちてくるのです。
聖書の言葉やお話、そして礼拝を、これからもみんなで大切にしていきましょう。
(子どもの礼拝要旨)
園長 石川 勇
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